Web連載5月号「福嶋聡著『紙の本は、滅びない』から学ぶ(2)」

web連載 新・棚は生きている

「電子書籍の時代」を生き抜く書店のあり方とは

福嶋聡著『紙の本は、滅びない』から学ぶ(2)

青田恵一 

(前回からつづく) 

「何を」教えるかの具体例としてあげられている、伝説の灘高教師による〝奇跡の授業〟には目を開かされた。書店で働く人もそうでない人も、この箇所はほんの数行のことなので、必ず当たっていただきたく思う(p107~108)。

 さてそうなると、著者はデジタル教科書に絶対反対なのかといえば、そんなことはない。併用もありえると述べている。 

  まずなされなければならないのは、紙の教科書、デジタル教科書のそれぞれの特長の検証、そして総合的にどちらが子供たちの学習に資すること大であるかの見極めである。もちろん答えは二者択一とは限らず、上手な併用という選択肢もありえるだろう。その場合でも、用い方の効果的な配分のために、それぞれの特長の検証は欠かせない(p108)。 

 この地点から学びそのものについても問うていく。 

 『「学び」の復権』(辻本雅史著)によれば、「滲み込み型」の「学び」が、江戸時代の手習い塾の基本であった。そこで行われていたのは、知識を、「わざ」や「術」として、あるいは、「礼」として身につける学習、自学自習を原則とする「滲み込み型」の「学び」であった(中略)。

そうした「学び」の場で求められるのは、「教え込み型」の教師ではなく、よき「手本」として学習者の前を進む、いわば先行者というべき教師であった。そして学ぶ側に不可欠なのは、なぜ学ぶのか、自らが学ぶことの意味を生きていくことのなかで捉える「立志」の自覚である(p116)。

 

 どうであろうか。学びの根本からデジタル教科書を論じるその人が、店長とはいえ書店員なのである。

ほかにも、いくつかの問題提起がなされる。抽象化能力の育成、IT教育のカスタマイズ、生涯学習、ホームスクーリング 、テイラーメイド、デジタル教科書の目や精神への負担などの問題を射程に入れながら、著者は論を張る。

デジタル教科書につき、もちろん専門的な議論はいろいろあるだろうが、私は、本書のおかげで要点をつかむことができた。

 

 電子図書館の問題に対する著者・福嶋聡氏の危機感は強烈なものがある。電子図書館が普及すると仮定した場合、納入する数は1部で足りる。だがそれでよいのだろうか。むろん、いいはずがない。著者は叫ぶ。

 

  出版社にとっては、たまったものではない。出版社は、数千部売れれば採算が取れ、重版して数万部売れれば儲けが出るという計算で価格設定している。電子書籍もそれに準じるだろう。それなのに、たった1部を図書館に売るだけで数千人・数万人にそれを読まれたとしたら、採算も何もあったものではない(p137)。

 

 つづけてこう書く。「『電子図書館』は、どのような方法を取ったとしても、図書館の理念と相反するものになってしまうか、利用者、図書館、出版社のどこかで、無視できない無理が生じてしまう(p138)」のだ、と。

 

 この問題だけではない。本書全体のモチーフ(あるいはそのゴール)がここから語られていく。それはふたつある。ひとつめ。

 

  ぼくたちがよく知っている図書館や書店は、「近代」が生み出した。ベネディクト・アンダーソンやハバーマスが指摘するように、出版(publish=公共化)は「近代」の理念を支えた。近代世界の構造は市民社会であり、その理念は民主主義であり、それを動かす活力は市場経済である。図書館は、書物を貸出し、知識と情報をすべての市民に無償で開放することによって市民社会の理念を具現し、書店は書物を販売することで、書物を市場経済の枠組みの中に組み込んだ。対価は著作者の活動の原資となり、即ち書物の生産の活力となった。書店も図書館も、「近代」の理念や制度とセットなのだ(p144)。

 

 ふたつめ。

 

 「近代」は個人を発見した時代でもある。「個人」の尊重は長く見積もっても五〇〇年くらいの歴史を持つに過ぎない。そして、その短さは、商品としての書物の短さと、ほぼ一致する(p145)。

 

 それがIT化の進展によって、個人も近代の理念も揺らいでいる。著者は問う。本当にそれでいいのか、と。

 

 「否(ノン)」と、ぼくは答える。

書物を守りたい、書店を守りたい、図書館を守りたいという信念が、その「否」を担保すると信じながら(p146)。

 

 なぜ書店で働くのか。その答が期せずしてここにあった。

 

4 書店の普遍性を求めて

こんな思いをしてまで、自分はなぜ書店で働いているのだろう?

現場の書店員がそういう疑問を持ったにせよ、現実問題、突き詰めて考える余裕や機会はなかなかない。とはいえ書店の道を自分で選んだ以上、その答もみずから出すしかない。だがそんなとき、他の書店で働く人は、同じ問題を、どう悩んだり解いたりしているのかとも思う。

 

その答を福嶋氏はこう打ち出した(先ほどの引用文を短縮する)。近代は市場経済と市民社会と個人尊重の思想を生んだが、いま電子書籍とインターネットでこれらが揺らいでいる。書店員はこれを守るために働いているのだ、と。賛否はあろうが、私は大いに心を動かされた。

 

 書店のあり方を問う第3章「書店は、今・・・・・・」にこそ、氏の危機感が凝縮されている。書店はいつまでつづくのか。いやつづけられるのか。もっといえば、つづけるためにどこまで戦えるのか、その危機感である。

その危機感を持っているため、著者は書店の普遍性をとことん追究する。なぜ福嶋氏は普遍性の追究をやめないのか? それはおそらく、著者が、売場展開や販売に普遍性があれば、そこに書店存続の必然性と有用性を見出せる、と考えているからではないか。

そうであるなら、人間と社会と世界のなにか――幸いであれ、進化であれ、充足であれ――にとって、書店は不可欠の存在になりえるという確信を、著者は、まぎれもなく持っているのである。本書の奥底に流れるこの確信こそ、私たちが受け取るべきメッセージなのにちがいない。

 

普遍性のテーマに迫るに当たり、福嶋氏は独自のアプローチを取る。それは、各ジャンルの著者たちの発想なり哲学を刺激にして、議論を展開していることだ。思えば著者たちは、出版業界にとり最もありがたい顧客である。そのお客さまが執筆した本を、深く読み込みながら、本を読むことと売ることの意味を探っていく。そしてそこから書店の普遍性を見出そうとする。

確かに顧客の奮戦の結実から得られた普遍性なら、それは妥当なものといえるかもしれない。

 

売場づくりに関し、現場の人間がとくに留意したい真実が書いてある。それはいってみれば、棚における変化への対応のことである。

 

 「まったく新しい本」が新刊便で入荷してきた時、書店員は悩む。どこを探しても、その本がピタッと収まる場所はない。書店員は苦労して、他の本の並びを変えたりして、何とか「まったく新しい本」を棚に収める。棚の「絵柄」はわずかに変化している。

ぼくの経験ではそんな「まったく新しい本」が後に「画期をなす本」となることが多い。そうした本は、棚の「絵柄」を変えるだけでなく、新しい価値観やスタイルを求める読者の関心を惹き、賛同を得て、長く読み継がれる本となるからだ(p205~206)。

 

このことは言葉を変え重ねて言及される。

 

 真に新しい本が書棚に収まった時、その本が既刊本との新たな関係を織りなし、既刊本の意味を変えてしまい、書棚全体がまったく新しい見え方をする、それが本来あるべき姿であると思う。その時、区切られ方自体が変化していくこともあろう(p238)。

 

そして書店づくりとしての結論はこう導き出される。

 

 お客様に来店いただくこと、一度来店されたお客様に「また来よう」という思いを抱いて帰っていただくこと、そうしてリピーター、ファンを増やすこと、そのことを通してしか、「売場」の成長は、ない(p232)。 

 

まさしくそのとおりである。

ともあれ氏の文章からは、本を愛すること、出版を愛すること、書店を愛することの思いが、痛烈なまでに伝わってくる。その意味で本書は、一般読者向けでもあるが、同時に、書店界全体の危機感を反映しつつ、現代書店員の気持ちを代弁している本ともいえようか。

すなわちこの1冊は、その多くが、書店員の書店員による書店員のための本なのである。

 

              

 

 

 

 
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