出版メディアパル(Murapal通信)


1.10  出版技術講座20年の歩み

 一九八〇年五月、日本出版労働組合連合会(略称:出版労連)が開講した「本の学校=職業技術講座」は、一九八二年から「出版技術講座」と名称を改め、今年で、第二一回目を迎えた。
 「なぜ、労働組合が技術教育を始めたのか」を労働組合による自主講座二〇年の歩みとその歴史的位置付けを考えてみることにしたい。

一.「本の学校=職業技術講座」の誕生
 「職業技術講座」の誕生を「機関紙/出版労連」(一九八〇年三月二一日、第七〇三号)は、次のように伝えている。
『人数の少ない職場で働いていると、なかなか“仕事を教えてもらう”機会が少なく、不安なままいつしか我流に陥りがちなもの。主に組合で仕事上のベテランの方々に“一脱いでもらって”月二回の教室を開くことになりました。』
 『講義と交流を組み合わせた教室となります。募集人数は五〇名で、対象は規模三〇名程度以下の出版社の労働者を中心に考えています。場所は、平凡社別館の会議室。市ヶ谷駅から歩いて八分です。』
 続いて、「機関紙/出版労連」第七〇四号では、『三月二四日から募集を始めた「出版労連/職業技術講座」は、短期間に応募が殺到し、受講人数を若干増して、いよいよ五月八日から開講される』と報じ、『予想以上の応募に、うれしい悲鳴をあげています。 良い仕事をしたい、仕事を覚えたい、という労働者の深い要求の現れだと思えます。逆にいうと、いま職場では仕事をキチンと教えてもらえないことの反映です。 受講できない人も出ましたが、次の機会をぜひ作りたいと思います。こうした状況は、出版労連が、この三年来強調してきた “新しい質の労働運動” の方向を示すものであり、こういう分野の取り組みをいっそう強めていきたい。』と、同講座運営委員会の向山事務局長の談話を紹介している。
 第一回の「技術講座」の主な内容は、第T課程が「本を作るための講座六講座」、第U課程が「本を売るための講座四講座」、第V課程が「出版文化論二講座」で構成されており、第一講座では、岩波書店の岩崎勝海氏の「企画と編集」を配置、「本の製作」「校正の基礎知識」「印刷の基礎知識」「定価計算」「雑誌の販売・本の販売」「販売と流通のしくみ」「在庫管理の実務」「出版広告の基礎知識」「書店から見た出版文化」などの実務講座を出版現場のベテラン編集者・製作者などで受け持ち、最終講座では、哲学者・古在由重氏の「平和のための出版の自由 ― いまならば、まだ、遅くはない」を配置するなど本格的な講座となっている。

二.“新しい質の労働運動”と「出版技術講座」
 “新しい質の労働運動” とは、一九七八年から一九八〇年にかけて技術革新が急速に進行する中で、出版労連の運動方針に掲げられたスローガンのことで、「出版の仕事、企業・産業のあり方を労働組合の立場から見直す」という考え方が、一九七九年度の方針案に掲げられている。
当時を回想して、七月四日に行われた「出版技術講座二〇周年記念講演」で、後藤勝治氏は、次のように講演した。
 『一九七九年の六月には、「出版労連結成二〇周年」を記念して、森下昭平氏(当時、出版労連副委員長)を団長に三九名の方が、「イタリア・フランス視察団」として、CGT(フランス総同盟)やCGIL(イタリア総同盟)を訪問します。
 視察団は、ヨーロッパの出版社や書店の現状を学び、その中で、フランスやイタリアの労働者が、どんな権利を獲得し、どんな風に働いているのかを学んでくるのですが、そんな中で、ヨーロッパの労働組合が、職業教育に熱心に取り組んでいることも見習うべき課題の一つとして学んできました。
特にドイツでは技術教育が盛んで、「書籍業職業学校法」に基づき「書籍職業学校」が労働者自らの手で運営されていますが、一般的にヨーロッパ型の賃金の基準に労使間である種の合意のある職種ごとの賃金基準があることも要因していると思われます。
 一方、日本でも、全印総連の仲間達が、技術教育の必要性を強く感じ、東京地連が中心になって、東京都に働きかけ、「印刷技術向上」の講座を、赤羽職業訓練校の夏期講習の形で始めています。日本でも、単に、時代の変化や技術革新に対応するだけでなく、自分達の賃金水準を上げてゆくためにも「自らの職業技術の水準を高める必要がある」という“職能意識”がこの時期に芽生えてきたといえます。』
 そんな中で、出版労連は一九七八年の運動方針の中で、「新しい質の労働運動」という方針を掲げ、次のような考え方を明らかにしている。
 『ますます深刻化する出版産業の停滞ないし後退状況のもとで、商業主義と寡占化が進行し、そのことが日本の出版文化の質に影を落としている今日、出版という仕事や出版企業のあり方を問い、自らその答えを求めんとする我々のたたかいは、単に我々自身の生活と仕事の場を確保するという職業的利益のためだけでなく、広範な国民の文化的要求にこたえるという出版労働者の社会的責務に答えるものであり、今、ようやくその端緒を掴みえたといえるだろう。』
 仕事のことは、経営者任せということではなく、「企業の枠を超えて、出版文化の担い手としての出版労働者の連帯が必要なのだ」ということが語られ始めたといえる。
 そして、その“職能意識”の芽生えが、一九七六年の一月に生まれた合同労組(企業規模三〇名以下の小さな組合の集合体)の組合員の職場の強い要求と重なり、「第一回職業技術講座」が開催されたといえる。

三.「出版産業政策試案」と産業政策委員会の確立
 一九八〇年六月に発行された「出版レポート」に出版対策委員会の試案という形で発表された『八〇年代の出版のあり方―出版産業政策要求二〇項目(試案)― 我々はこう考える』が、大きな話題を呼んだ(出版対策部部長 折田 直昭氏)。
 政策の基本は、「国に対する要求五項目」「地方自治体に対する要求三項目」「出版業界に対する要求九項目」「企業に対する要求三項目」などからなっている。その出版業界に対する要求の中に「常設の出版技術講座を開設せよ」という項目があり、『現在、西ドイツでは、「書籍業職業学校法」に基づき、「書籍職業学校」がつくられ、権威と実力のある職業人を育成しているが、この方式などの研究の必要があろう』と位置付けられている。
 そして、本格的な「産業政策の確立をめざす」ことを基本的に位置付けた「産業政策研究委員会」が新たに構成され、『出版産業の民主的発展をめざした産業政策要求づくり』の具体化に着手、その第一歩として、従来の「出版研究集会」の成果を引き継ぐ形で一九八一年三月二〇日・二一日に「第一回出版産業討論集会」(「核時代の出版文化」が開かれた。
 その後、産業政策要求づくりの柱として、「出版共済組合の設立」「業種分析・産業分析の確立」「流通問題対策委員会の確立」「技術革新への対策」などが掲げられ、さまざまな角度からの産業政策作りの研究が始まった。九月には、「資料・産業政策研究」が発行された。
 そして、一九八二年度の「運動方針」一項目に『はじめての試みとしてとりくんだ「第一回職業技術講座」の成功を発展させ、今後さらに内容的にも充実させて、権威ある講座として定着するよう、努力を強める』という項目が掲げられ、技術講座の運営が産業政策委員会の活動の一つとして位置付けられた(出版対策部部長 後藤 勝治氏)。
 なお、出版労連の「産業政策要求」は、その後、一九九四年に「これでいいのか出版産業」という形で、九〇年代の「産業政策要求」が提案され、一九九九年には、二一世紀を目指す「産業政策要求」として、「出版産業への提言」が発表され、時代に対応して発展的な政策提言が行われてきた。この提言は、一九九八年から開設された「出版労連のホームページ」で見ることができる。

四.恒常的な「技術講座」の確立を目指して
 「技術講座」の運営を担うことになった産業政策委員会は、「第一回職業技術講座」の成果を学び、基本的には、「本を作るための基礎知識」「本を売るための基礎知識」「出版文化論」という三つの柱を踏襲しながらも、初年度の講座内容を検討、五月から一二月までの「月二回」八ヶ月にわたる一二回の講座運営は、「運営側にも、受講生にも無理がある」と判断し、五月から六月の二ヶ月で、「本を作るための基礎知識」を中心に六講座〜八講座で運営することとした。
 そして、参加対象も初年度が「企業規模三〇名以下の出版社に働く労働者」としていたが門戸を広げ、一人でも多くの参加希望者が受講できる講座とし、名称も親しみやすいように「出版技術講座」と改めた。
 運営委員会の体制は、産業政策委員会を事務局(現在は「出版・産業対策部」運営委員:出版対策部長+講座担当中執)に「合同労組、教宣部、青年会議など」で構成する。
 そして、次のような運営要綱が定められ、「出版技術講座」の常設化を目指す運動が始められた。
 組合員の自主的な「スキル(技能)学習」の場として、ドイツの「技術教育制度」に学ぶ。
 自主運営に努め、「本部財政に頼らない」「赤字は作らないが利益をあげる必要はなし」
 受講者へのサービスに努め、「最少の費用で最大のサービスを提供する」
 節約をモットウに若干の備蓄に努め、講座運営に必要な機材・備品類の拡充を図る。
 生まれたばかりの講座は、「教材はない、教室がない、お金もない」3K状態のゼロからの出発であったが、「ニューメディア・技術革新時代」を迎え、技術教育が強く求められていた。
 この基本方針に基づき、一九八二年の「第二回出版技術講座」から、二〇〇一年の「第二一回出版技術講座」まで、労働組合の自主講座として、「本の学校=出版技術講座」が毎年行われ、六〇人ないし九〇名ほどの受講生が、この「編集者のための夜間学校」を巣立っていき、いろいろな会社で出版文化の担い手として、本や雑誌を作り続けている。二一年間の延べ人数は、一六〇〇名を数えている。

五.「関西出版技術講座」と「フォローアップセミナー」
 東京の「技術講座」が軌道に乗り始めた一九八七年十月に関西で初めての「第一回出版技術講座」が開講され、好評を得た。
 関西在住の出版社は約六〇〇社といわれている。大阪・京都の出版労連の組合員数は、おおよそ一五〇〇名である。東京のようにエディタースクールもなく、学ぶ機会の少ない関西地域での「技術講座」の開催は、東京以上に困難な条件ではあるが、大阪の出版対策部と大阪地協の努力で、今日まで、「第九回出版技術講座」まで開催され、延べ人数も五〇〇名を数えている。
 関西では、一九八八年から、関西在住の編集たちのボランティア講座として、「アミ編集者学校」が開講され、好評を博している。
 なお、東京の「出版技術講座」は、毎年五月から七月にかけて開催される「本を作るための基礎講座」を常設講座とし、「電子出版講座」「DTP講座」「ホームページ作り講座」「初めてのパソコン講座」などの技術革新に対応する講座や「写真講座」「著作権講座」「原価計算講座」「製本講座」などのフォローアップセミナーにも年六回程度積極的に取り組んでいる。このフォローアップセミナーの二〇年間のトータル回数は、六〇講座を超え、延べ二〇〇〇名の参加を得ている。

六.「ビデオ・本づくりこれだけは」の完成
 一九九一年には、合同労組の中に「一人でも入れる個人加盟の組合」が生まれ、「労働者の職業教育を考える会」なども開催され、一九九二年の出版ユニティの正式発足とともに、「本つくりの基礎知識」を誰からも教えてもらえない出版ユニティの人たちのためのビデオ教材の必要性が強い要望となり、「本づくりこれだけは」のシナリオ製作が始まった。
 そして、一九九三年秋から一九九四年春にかけて、その撮影が行われ、出版労働者の手作りのビデオ「本づくりこれだけは」が、一九九五年の三月に完成され、以後、「出版技術講座」のオリエンテーション講座に毎年上映されている(なお、ビデオ「本づくりこれだけは」は、頒価一二〇〇〇円、出版労連に在庫あり)。
 「一人の女性編集者が初めて本つくりに挑む」笑いあり、涙ありの五四分のこのビデオは、毎年、見る人の共感を呼び、「まるで、等身大の自分を見ているようである。」との感想も寄せられている。さまざま講座で上映されるこのビデオの上映回数も二〇回を超え、のべ一二〇〇名の観客数を数えている。

七.出版労連のホームページと「出版技術講座」
 出版労連のホームページは、一九九八年一月から正式に開設され、出版労連に関するさまざまな情報を公開している。その一つのサイトとして、WEB版の「出版技術講座」も公開されている。
 このサイトには、機関紙・出版労連に連載されている「渦・出版界の内と外」が「太郎さんと花子さんの出版技術講座」として収録されている他、常設の「基礎講座」で受けた質問に関する回答が「本づくりこれだけはQ&A」として収録されている。
 また、私が、この二〇年間に「出版レポート」などに発表してきた主要論文が、「マルチメディアと出版の近未来」として収録されている。
「インフォメーション」コーナーには、出版に関するさまざまなサイトにリンクが張られており、便利なお薦めサイト集になっている。

八.夢を育んで二〇年、「本と編集者の世界」
 「本と編集者の世界」というのは、その講座で発行している学校ニュースのタイトルである。このニュースは、講座運営に当たる私たちと、講座の受講生たちを結ぶ“架け橋 ”として、講座開催中は、毎週発行されてきた。この講座を支えてくれた多くの講師の方々と受講生の感想に励まされながら、運営委員会は、二〇年間仕事してきたことになる。
 「出版技術講座」の役割を一言で言い表すと、「本づくりの心と技を次世代に伝達する講座である」言える。
私は、その講座とともに二〇年間、夢を育み、受講生とともに苦楽を過ごしてきたことになる。
 “おもしろくて為になる”という講談社流。あるいは、“為になっておもしろい”という小学館流。 そのどちらの視点に立つとしても、本や雑誌というメディア(媒体)を通して、同時代を生きる人々へのさまざまなメッセージを送り届ける“編集”という仕事の中で私たちは生きている。
 元々、出版という意味は、「パブリッシング=何かを公表する」という意味で、編集という意味は「エディット=何かを生み出す」という意味である。
 たくさんある情報の中から、たった一つのテーマを選んで、著者とともに“本” という紙メディアに託して、未来へのメッセージを送り続けるという視点は、電子パピルスになったとしても同じである。
 “本” には本の優れた特性があり、電子メディアには 電子メディア″の優れた特性があるわけだから、それぞれの特性を活かした共存共生の時代だといえる。
 どんなメディアも、永久に不変であるといえないが、不変ではないけれども “本は不滅である”と、私は信じている。
 その昔、パピルスに手書きの絵や文字を残してくれた古代人も、活版印刷により本という形で、その意思を現代に伝えてくれた先人たちも、また、電子メディアを駆使する現代の若者たちも、自らの意思を同時代に生きる人々へのメッセージとして託し、“夢”を育んでいることに違いない。
 電子出版時代とは、「紙以外の電子メディアを通じて、“人の意思”を伝達する時代である」といえる。人は、それをネオ・パピルスと呼び、あるいは電子パピルスと呼んでいるに過ぎないのである。
 明治の文豪たちは、インフォメーションの訳語として、“情に報いる”と書いて情報と訳した。情報とは、音声、文字、図形、身振り、手振りを含めた人の意思表示全体を指している。
紙メディアを使うにせよ、電子メディアを使うにせよ、それは同時代をともに生きる人々の“心と心”を結びつけ合う媒体の一つを選択することに他ならない。
 氾濫する、情報の中から、何を選択し、何を読者に“伝達”してゆくのかという「出版の原点」こそが、今、問われており、“技術”の問題は、その役割を果たすための一手法にしか過ぎないといえる。
 (二〇〇一年七月 出版技術講座学校長)



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